「日本刀を持ち、傘をさす、といった時の手の位置とか、歩く間合い、そうした演技の洋式を佐伯清監督に改めて学びました」と『昭和残侠伝』で初めて東宝から東映へ移り、任侠映画の準主役を務め上げた池部良の言葉である。シリーズ一作目で十人以上の敵役相手に大立ち回りを行い、元相撲部であった巨漢、山本麟一の腹に出刃包丁を突き刺すという体を張った演技を披露した池部は、東宝の撮影とは異なる家族のような一体感のある佐伯監督の撮影現場に感激したという思いを述べている。佐伯監督は常に、自分の映画論というものを持っており、意にそぐわないものは会社からの命であったとしても頑として拒否する…。ある意味昔ながらの職人気質を持った監督だったという印象を受ける。東映任侠映画の名プロデューサー俊藤浩滋曰く、「撮影されたフィルムが長くなって困る事が一度も無く、編集が楽で、たいへんテンポが良い監督」と評価をしている。きっちりと与えられた尺数で、計算している訳でもないのに必要な分だけの撮影をしてしまう。ここが職人監督と言わしめる由縁である。
 実は、佐伯清監督(1914〜2002)について書かれた文献・資料は、殆どなく唯一佐伯監督について記載されていたのは「文化愛媛」(愛媛文化振興財団発行)における「愛媛の映画人」という特集が佐伯監督について詳しく書かれている。佐伯監督の出身地、愛媛県は映画撮影所がある場所ではないにも関わらず、数多くの映画人・映画作家を輩出した県であり、「文化愛媛」の調査によるとキネマ旬報社発行の「日本映画人名事典 監督篇」(1997年)では19人もの監督が記録されている。同じ、愛媛県出身の巨匠、伊丹万作の門下として映画の世界に踏み出した佐伯監督は昭和10年に千恵プロ製作、伊丹万作監督作品「戦国気譚 気まぐれ冠者」の助監督として映画界デビュー。10年間の助監督時代を経て昭和20年東宝映画エノケン主演の「天晴れ一心太助」で監督デビューを果たす。その後、昭和22年より新東宝へ移り昭和27年の「嵐の中の母 」以降、東映京都の作品を手掛けるようになる。昭和30年代に入り、日本映画最盛期であった時代、東映は時代劇を中心とした数多くのプログラム・ピクチャーを世に送り出すわけだが、その一役を担ったのが佐伯監督であった。その作品群はバラエティーに富んでおり、時代劇から現代劇と幅広いジャンルを手掛けながらも一貫していたのは…娯楽映画に徹していただけではなく、その中に社会の問題点―特に戦後の色がまだ濃かった時代に製作された中国大陸を舞台にした「砂漠を渡る太陽」においては日本の戦争責任というテーマを物語の背景に組み込んでいた。

 最強のヒットシリーズとなった高倉健と池部良のコンビで知られる「昭和残侠伝」は佐伯監督にとっても代表作として知られるようになり、全9作の内、5作品を手掛けている。前述したように佐伯監督の頑固なところは本作の裏話としてもよく知られるところであり、有名な高倉健と池部良のクライマックスに至るまでの男二人の道行きシーンの事…。バックには健さんが歌う“唐獅子牡丹”の主題歌が流れるのが最大のウリだったのだが、これを佐伯監督は頑に拒否。歌謡映画じゃないのだから「そんなアホなもん撮れるか」と言い続け、東京撮影所長の説得にも応じず、さっさと帰ってしまったという。結局、当時チーフ助監督を務めていた降旗康男が再度、所長と共に説得を行い、最後には「もう勝手にお前らで撮れ」と言い放ち…結局、このシーンは降旗助監督とカメラマンの星島一郎の手によるものなのだ。佐伯監督は、どんな大スターであったとしても、撮影に遅刻すると叱り飛ばす(高倉健が交通渋滞で遅刻しただけで「何をしとるんだ、お前は!」と怒鳴ったというエピソードは有名)ほど気骨のある監督として知られていただけに、自分の信条に合わない仕事は受け入れなかったのだ。
 日本映画界が斜陽産業として低迷を始め、次々とポルノ・ピンク映画に転換していった昭和40年代に入っても自身のスタイルを崩す事無く、東映にて、時代劇・やくざ映画を作り続け、昭和47年「昭和残侠伝」最後の作品「昭和残侠伝 破れ傘」を最後に映画から離れてしまう。佐伯清監督は、最後の最後まで硬派な男のドラマとしたプログラム・ピクチャーにこだわり続け、剛直な一筋を通した監督であった。


佐伯 清(さえき きよし)
大正4年9月19日愛媛県生まれ-平成14年7月16日没。
昭和10年、同郷の映画界の巨匠、伊丹万作の助監督として「戦国気譚気まぐれ冠者 」で映画界入りを果たす。監督デビューは東宝の昭和20年製作「天晴れ一心太助」。昭和26年までは東宝と新東宝で監督を務め、主にエノケンの時代劇を中心に徐々に頭角を現す。昭和30年代に入ってから、主な舞台を東映東京と東映京都に移し、プログラムピクチャーの名監督として、バラエティに富んだ作品を数多く残す。特に、昭和30年代後半から40年代にかけて任侠映画を中心に撮り続け、その数は20本にも登り、この数は東映の監督の中でも4番目に位置する。また、娯楽映画に徹していただけではなく、大友柳太郎主演の「加賀騒動」では封建制度の中で一人の有能な武士が、圧殺されていく姿を描いたドラマを演出するなど果断な資質の一端を披露した作品も数多く残されている。また「昭和残侠伝」における“唐獅子牡丹”の作詞に監督の名前が連ねられている。



【参考文献】
財団法人 愛媛県文化振興財団ホームページ
機関誌「文化愛媛」「愛媛の映画人―佐伯清 一筋のアルチザン」より

愛媛県松山市道後町2丁目5-1
TEL (089)923-5111 FAX (089)923-5112

主な代表作

昭和20年(1945)
天晴れ一心太助

昭和26年(1951)
にっぽんGメン
  不敵なる逆襲

昭和29年(1954)
花と竜 二部作
沓掛時次郎
霧の小次郎 三部作

昭和32年(1957)
佐々木小次郎前後篇

昭和33年(1958)
娘十八御意見無用
美しき姉妹の物語
 悶える早春
恋愛自由型
花笠若衆
大岡政談
 幽霊八十八夜
一丁目一番地
娘の中の娘

昭和38年(1963)
柔道一代
浅草の侠客
白い熱球
わが恐喝の人生

昭和40年(1965)
昭和残侠伝

昭和41年(1966)
昭和残侠伝
・唐獅子牡丹
・一匹狼
昭和最大の顔役
侠客三国志
 佐渡ケ島の決斗

昭和42年(1967)
残侠あばれ肌
渡世人
続渡世人

昭和44年(1969)
懲役三兄弟
必殺博奕打ち
新網走番外地
 さいはての流れ者

昭和45年(1970)
新兄弟仁義
博徒仁義 盃

昭和46年(1971)
現代やくざ
 盃返します
昭和残侠伝
・吼えろ唐獅子

昭和47年(1972)
昭和極道史
昭和残侠伝
・破れ傘



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