金田一シリーズに全て出演している名バイプレイヤーであり、演出家であり、作家であり、作詞家であり…と、数多くの顔を持つ男―三木のり平。金田一シリーズの出演シーンは10分に満たないほど短いが、彼のおかげで本シリーズの奥行きが深まっているのを果たして何人の人間が気づいているだろうか?よく観ていると全作品のどれもが真犯人の手掛かりに結びつくきっかけとなるシーンばかりなのだ。『犬神家の一族』では、顔を隠したあおい輝彦が宿泊する安宿の親父に扮し、宿帳を代わりに書いてくれと言われ、あーでもない理屈を述べて拒絶するのだが、最後には「アタシが書くんですか?実は私…字が書けないんです」と白状するセリフの間合いは、三木のり平じゃなくては出せない。一見、誰でも良いのでは?と思う役を三木のり平は「三木のり平以外には考えられない!」と、まで言わしめるほど昇華させてしまうのだ。『悪魔の手毬唄』の元活弁士だった提灯屋の亭主も『獄門島』の俳句好きの床屋の亭主も金田一との軽妙で流れるよいな掛け合いの後、事件の真相を解く鍵を提供する。その途中で必ず女房役の沼田和子(毎回、夫婦を演じるこのおばさん…イイ味を出しているが本当は役者じゃなくヘアメイクさんなのだ…いつもモジャモジャの髪で登場するから信じられないだろうが)に邪魔されるのだが…。あっ、よくよく考えたら事件の鍵を提供するのは厳密には、この奥さんかも知れない。
 三木のり平は大正13年関東大震災の頃に東京の下町・浜町で生まれる(紹介されている書籍によってマチマチで本人も定かではないと語っている)、色街で母親が待合(芸者さんを読んで遊ぶ場所)を経営していたことから幼い頃より芸事に親しんできた。それが後に役者の道を歩むきっかけとなったのかは定かではないが…。しかし、流れるような心地良いセリフの言い回しを聴いていると、多少なりともその頃の影響を感じられる。最初は美術を志して日大芸術科に進学するが、学内に貼ってあった舞台美術の募集を見て劇団員となる(同級生に西村晃がいた)。これが、この世界に入ったきっかけとなったわけだから運命なんて、どう転ぶか分からないものである。その後、“俳優座”の前身である“大東亜舞台美術研究所”に所属する。戦時中は、警察が思想を持っているこれら新劇俳優を徹底的にマークしており、三木のり平本人も一度警察のお世話になっているらしい(とは言うものの特に思想的なものを持っていなかったため10日程で釈放されたそうだ)。喜劇役者としての道を歩きだしたのは戦後…進駐軍相手の慰問で、近江俊郎やジョージ川口らとステージに立ちコントをやったところ大いにウケた事が始まりだ。
 三木のり平の代表作(勿論、映画に限らせてもらうが)は、『社長シリーズ』と言っても異論はないだろう。だだし本人を除いてだが…。昭和31年『へそくり社長』から始まった森繁久彌の東宝サラリーマン喜劇は高度経済成長期真っ只中の日本人に『無責任シリーズ』と人気を二分する程、熱狂的に受け入れられた。そこで、三木のり平が演じるのはいつも社長の回りをうろちょろする社員でチョボ髭をはやした腰の低い腰巾着。隙あらば他人を蹴落とし、ひたすら社長にゴマをすり、ひとたび宴会になると「パーッといきましょう!パーッと」という決めゼリフで宴会芸を披露するのが毎度のお約束事(このセリフがでたのは『社長漫遊記』から)。このセリフが社員シリーズを代表するイメージとなったのは間違いない。当時、流行語大賞があったら確実に受賞していただろう。ところが、三木のり平は社長シリーズを自分の代表作と定義付けされるのを快く思っていない。それどころか「実をいうと映画はあんまり好きじゃないんだよ」と後に語っている。
(『のり平のパーッといきましょう』小田豊二著より)どうやら、三木のり平というと皆社長シリーズの話しを聞きたがるので面白くない…というのが真相らしい。そもそも、三木のり平が『へそくり社長』に出演したのは森繁久彌から「どしょうすくいを教えて欲しい」と呼ばれたのがきっかけ。最初は出来ないと断っていたのだが千葉泰樹監督から勧められた日本酒を一杯飲んだら気持ち良くなって披露してしまったわけだ。習った事もない踊りを即興で出来たのは育った環境が花街だったおかげ。自然と宴会芸は近所で見聞きして覚えてしまったのだ。三木のり平が出演した『社長シリーズ』の中で秀逸なのは『社長太平記』の営業部長役。その会社は女性下着の会社で、三木のり平が試作品のブラジャーを付けて歩き回る。本人は、いたって真面目なのだが、この表情が何とも言えないのだ。その続編『続社長太平記』では、森繁との絶妙な絡みを披露してくれる。森繁演じる社長が越路吹雪を口説こうとしている側で邪魔をする。勿論、本人は良かれと思ってしているのだが、それがうっとうしい。そりゃあ、口説いている脇で「おミカンむきましょう」なんて二人の間に割って入るんだから追っぱらいたくなることこの上ない。この二人のやり取りが毎回手を変え品を変えシリーズに登場することになる。これが、後に松竹の名物シリーズ『男はつらいよ寅次郎と殿様』で元藩主の末裔である嵐寛寿郎演じる名士の秘書を演じた時も嵐寛相手にお節介役を好演。あまりにもうるさいから怒った嵐寛が日本刀を持ち出し「手打ちにいたす!」と追いかけられる始末に涙を流して大笑いした記憶がある。こうした三木のり平の“お呼びじゃない”芸風はその後の喜劇人に多大な影響を与えたと思う。特にドリフのコントの原点は三木のり平にあると見た。
また東宝サラリーマン喜劇と双璧の人気シリーズ井伏鱒二原作の『駅前旅館』では、森繁久彌の他更に芸達者の伴淳三郎やフランキー堺といった華やかな(賑やかな?)喜劇人と共演している。社長シリーズと異なり、上野の旅館に集う様々な人々の群像劇となっているのが本作の魅力である。これだけの芸達者が一堂に介しただけに、豊田四郎監督は基本的な演出以外は全て役者たちに委ねたという。「あの映画はカットを細切れにしないで舞台流にしようと相談して、勝手に芝居をさせたんだよ」と後に語っていた。しかし、日本映画も斜陽期に突入し、プログラムピクチャーも次第に製作本数の減少を余儀無くされると必然的に、こうした喜劇も少なくなっていった。元々、舞台を俳優だった三木のり平は次第に活動の場を舞台に移し昭和40年台は年間2〜30本出演していた映画も数本に留まるようになった。どうしても喜劇人というイメージが強かった三木のり平だが、晩年、今村昌平監督の『黒い雨』で素晴らしい演技を披露している。広島に原爆が投下されて被爆者となった娘が差別を受ける。死の灰を浴びて、いつ死ぬかもわからない恐怖と隣り合わせに生きている人々の姿を重厚なモノクロ映像で描く問題作だ。後遺症で次々と死んでいく登場人物の一人が三木のり平で、主人公の娘に縁談を持ってくる老人の役を演じている。晩年は映画の数こそ減ったものの、各々の役を三木のり平が演じることで、他の何者でもない人格を形成してしまっていた。かつて、芝居について語っていた三木のり平の言葉を思い出す。「せりふが完全に自分のものになったらそれに頼らず、初めて生み出された言葉のようにしゃべることが大切なんだ。役に成りきってしまえば、相手のせりふを聞いているうちに、自分のせりふが自然に出て来るようになるんだ」


三木のり平(みき のりへい)NORIHEI MIKI 本名:田沼 則子(ただし)
東京市日本橋区浜町(現・中央区日本橋浜町)生まれ
1924年4月11日(正確な記録は残されていない)〜1999年1月25日
 1947年、日本大学法文学部芸術学科を卒業後、青山杉作研究所から俳優座を経て、三木鶏郎グループに入り、コメディアンを目指す。NHKラジオの“日曜娯楽版”に出演する傍ら、日本劇場の舞台に立つ。映画デビューは、1950年清水金一主演の喜劇『無敵競輪王』。1954年、森繁久彌、三木鮎郎らと虻鉢座を結成し、注目を浴び、1957年からは、有島一郎とコンビで“東宝ミュージカルズ”で活躍する。その前年1956年に東宝と専属契約し、『のり平の三等亭主』で本格的に映画に出演するようになる。以後、森繁久彌と共演した『社長シリーズ』や、森繁、伴淳三郎、フランキー堺と共演した『駅前シリーズ』などで人気を博した。『社長シリーズ』での「パァーッといきましょう」は、流行語にもなった。「スターは三船(敏郎)。役者は(三木)のり平。」と言わしめるほど、その演技力は、大衆的に認知され、評されるほどであった。
 演出家としての才能も高く、森光子主演の舞台『放浪記』では、1981年より演出も務めている(他界後の公演も、肩書上は「演出」を担当していることになっている。もちろん現在は、「演出補」の本間忠良が実質的演出担当者に)。森光子は自身より年少かつキャリア的にも後輩であるのり平に対し「のり平先生には感謝している。」と今なお涙ながらに賛辞している。
 また、“桃屋”のアニメーションCMは、1958年の『助六篇』から1998年の『カライ盗ルパン篇』まで40年間放送され、お茶の間に親しまれた。1999年の『大根の運命篇』より。現在桃屋のCMは、実子で長男の小林のり一が声を担当している。マンガ『焼きたて!ジャぱん』には、主人公たちの対戦相手として、桃屋のアニメーションの三木のり平がそのまま三木のり平本人として登場し、ごはんですよ!を使用したパンを制作した。アニメ版の声は青野武が担当した。1999年1月25日、肝腫瘍のため死去。享年74。葬儀委員長は親友・森繁久彌が務めた。
(Wikipediaより一部抜粋)

【参考文献】
のり平のパーッといきましょう

430頁 20.6 × 2.8cm 小学館
三木 のり平【著】 小田 豊二【聞き書き】

【主な出演作】

昭和25年(1950)
シミキンの無敵競輪王

昭和30年(1955)
陽気な天国
スラバヤ殿下

昭和31年(1956)
へそくり社長
ウッカリ夫人と
 チャッカリ夫人
のり平の三等亭主
 愉快な家族
のり平の浮気大学
 愉快な家族

昭和32年(1957)
大番
極楽島物語
続御用聞き物語
続サザエさん

昭和33年(1958)
社長三代記
次郎長意外伝
続社長三代記
弥次喜多道中記
ちゃっきり金太
続ちゃっきり金太
底抜け忍術合戦
 俺は消えるぜ

昭和34年(1959)
社長太平記
大笑い江戸っ子祭
続・社長太平記
狐と狸

昭和35年(1960)
落語天国紳士録

昭和36年(1961)
誰よりも金を愛す
社長道中記
猫と鰹節

昭和37年(1962)
喜劇 団地親分
雲の上団五郎一座
社長洋行記
喜劇 駅前温泉
喜劇 駅前飯店
ちんじゃらじゃら物語

昭和38年(1963)
社長漫遊記
喜劇 とんかつ一代
社長外遊記
台所太平記
喜劇 駅前茶釜
新・夫婦善哉

昭和39年(1964)
社長紳士録
女嫌い
香華 前後篇
喜劇 駅前怪談
喜劇 駅前天神

昭和40年(1965)
社長忍法帖
喜劇 各駅停車

昭和41年(1966)
社長行状記
喜劇 駅前弁天
喜劇 駅前漫画

昭和42年(1967)
社長千一夜
喜劇 駅前満貫
なにはなくとも
 全員集合!!
喜劇 駅前探検

昭和43年(1968)
スクラップ集団
お熱い休暇

昭和44年(1969)
喜劇 駅前桟橋
大日本スリ集団

昭和45年(1970)
喜劇 冠婚葬祭入門

昭和48年(1973)
毘沙門天慕情

昭和51年(1976)
犬神家の一族

昭和52年(1977)
悪魔の手毬唄
男はつらいよ
 寅次郎と殿様
獄門島

昭和53年(1978)
女王蜂

昭和54年(1979)
病院坂の首縊りの家

昭和64年(1989)
黒い雨

平成10年(1998)
SADA
秘祭



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