パッチリとした大きな瞳と美しい流線型の目が印象的な左幸子は、昭和を代表する女優の一人だ。しかし、可愛らしい顔立ちであるにも関わらず、スター性に欠けていたのか…看板女優として主役を張る作品に恵まれなかった。こんな事を言うのは変かも知れないが、彼女の類い希な演技力が、それ(顔だけを売り物にする)を頑なに拒んだのかも知れない。左幸子の出世作『女中ッ子』で彼女は秋田から希望を抱いて東京にやってきた純朴な少女を瑞々しい感性で表現。女中として入った家族に温かく迎えられるも、そこの息子の出来心をかばったために訪れるほろ苦いラスト…寂しく列車に乗り東京を去る彼女は、名匠・田坂具隆監督の要求にしっかりと応えていた。続く森繁久彌と共演した『人生とんぼ返り』で演じた殺陣師・市川段平の家で面倒を見てもらっている身よりのない娘・おきくは素晴らしかった。ギリギリまで感情を抑えて抑えて…クライマックスで一気に爆発させる。左の演じるおきくは、「本当は、自分の父親は段平ではないか?」と思いつつ一緒に暮らしている。実際、段平が外で作った娘なのだが本人だけが知らないのだ。だから、お世話になっている引け目と、父親に対する愛情が交差しながら暮らす…という演技が複雑で難易度が高いのだ。後半、中風で寝たきりになった段平の枕元で交わす二人の会話が泣かせる。実の娘である事を今さら言い出せない段平の心境を理解しつつ、父親として名乗って欲しいと思う娘心を巧みに表現。それどころか、遂に殺陣師として復帰する事が出来ないまま、段平は忌の際に娘に最後の殺陣を伝授する。左幸子は、ここからが凄い!父親の死を看取ったその足で新国劇に向かい、父の志しである最後の殺陣を二代目段平として、見事披露するのである。ちなみに、当時のパンフレットによると久しぶりにカツラを付けたため頭がガクガクして苦労したと語っているが、それ以上に慣れない大阪弁のアクセントには何度もNGを出したという。アクセントに悩まされたのは『女中ッ子』の秋田弁に次いで2度目だった。
 続く『神阪四郎の犯罪』では、役柄が180度変わり、悲劇のヒロインか?もしくは、男を死に誘う魔性の女か?…二つのタイプの女性を巧みに演じ分けている。冒頭、森繁の腕に抱かれながら朦朧とした意識で死を迎える彼女の姿は、愛する男を死の淵へと誘う魔性の女そのもの。そこには『女中ッ子』にいた純朴な少女の姿はもうない。また森繁との濃厚なラブシーンを演じたのが話題となったが、このシーンに関して言えば森繁と久松監督が新境地を開拓するための重要なシーンだっただけに熱の入り方が違っていた。10人の移動係を使って大クレーンに備え付けたカメラで最高潮に達したところで二人のクローズアップになるという迫力溢れるシーンだ。ここで左は10日間をかけて研究した肺を病んだ彼女の目がギラリと光るメイクを自ら施して鬼気迫る女の情念を見事に表現する事に成功した。
 彼女の大きな瞳は、時に死んだ魚のように虚ろな光を放つ事がある。それが顕著に表れたのが、女優として左幸子の方向を決定づけた昭和38年、今村昌平監督作『にっぽん昆虫記』だった。日本人の土着的な“生”と“性”を生々しく描いた本作で寒村から上京して売春婦に身を投じながらも逞しく生きる主人公とめを演じた左。この年の彼女は正に飛ぶ鳥を落とす勢いで、同年『彼と彼女』において日本人で初めてベルリン国際映画祭で見事、主演女優賞を獲得する。今村監督は、強靭な精神を持つ主人公に左をたっての希望で出演交渉に当たり、その勘は的中したわけである。本作では精神を病んでしまった北村和夫演じる父(実は度重なる母の浮気で彼女が実の娘か不明なのだ)と近親相姦的な愛情で結ばれた左が体当たりの演技を披露。モノクロの映像は目の大きな左の表情を際立たせるのに効果的だ。乳飲み子を抱え里に戻った彼女が年老いた父と畑仕事をした後、張った乳を父親に与えるシーンで見せる彼女の官能的な表情は人間のごうを浮き彫りにした名シーンとなった。続く時代劇『五棒の椿』で見せるお歯黒の醜悪な姿…次々と男を変えてゆく母親を好演。娘役の岩下志麻との壮絶な母娘の確執と争いが忘れられない。激しく娘を罵り、発狂寸前の様なギリギリの演技。左の演技は娘役の頃から一切変わっていない、常にギリギリのところで演じているのだ。だからこそ、いつも危うくて、何かとんでもない事をやらかしてしまうのでは…?と危機感を観客に抱かせる。左幸子が、おもむろに内に秘めた凄まじいパワーを発揮する瞬間、死んだ魚のような瞳が異様な光を放つのだ。


左 幸子(ひだり さちこ)SACHIKO HIDARI 本名:額村幸子
1930年6月29日生まれ-2001年11月7日没。富山県下新川郡朝日町生まれ。
 骨董店を営む両親の三男五女の長女として生まれ、東京女子体育専門学校(現・東京女子体育大学)卒業後、都立第五商業高校の体育・音楽教師をしながら俳優座の委託生となり演技を学ぶ。1951年『家庭よみうり』のカバーガールを務めたことから新東宝の野村浩将の目にとまり、1952年に野村の勧めで『若き日のあやまち』に主演する。デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、日活、大映に短期間所属したことはあるものの、五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。1955年に主演を果たした『女中っ子』の演技が好評を博す。1957年『幕末太陽傳』で南田洋子と伝説的な喧嘩シーンを演じ話題となった。
 1959年 映画監督の羽仁進と結婚。64年に長女・未央を出産。1963年『にっぽん昆虫記』では貧しい農村の、職業を転々としながら売春組織の元締になっていく女を熱演。同作品『彼と彼女』で日本人で初めてベルリン国際映画祭主演女優賞を獲得。続く1965年『飢餓海峡』で純朴な娼妓・杉戸八重を演じ、毎日映画コンクール女優主演賞を受賞。1977年『遠い一本の道』監督・主演。当時の国鉄労働組合が1億円の資金を提供し、田中絹代に次ぐ女優監督となった。この作品における監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。この年に羽仁進と離婚する。
 1985年 胃癌のため胃の一部を切除するが、6年後1991年 に、舞台『糸女』で見事カムバックを果たす。テレビドラマでは『北の家族』(1973年)『赤い絆』(1977年〜1978年)『大市民』『野のきよら山のきよらに光さす』などに出演した。胃切除後は体調が思わしくなく、次第にスクリーンから遠ざかっていく。 晩年はテレビバラエティー『快傑熟女!心配ご無用』(TBS)のパネリストを務めたり、『ライオンのごきげんよう』(フジテレビ、1996年9/20、9/23、9/24)、『恋のから騒ぎ』(明石家さんま司会)『いつみても波瀾万丈』(どちらも日本テレビ)にもゲスト出演した。1965年1月4日-1965年5月31日まで音楽番組『ミュージックフェア』(フジテレビ)の司会も担当した。ワイドショーの司会をした事があるが、番組中で沖縄国会強行採決を批判した政治的発言により降板した。
 2001年11月7日、国立がんセンターで肺癌のため死去。享年72(満71歳没)だった。訃報を聞いた今村昌平監督は、「自己主張の強い女優さんで、一時期、映画会社から嫌がられたこともあり、『にっぽん昆虫記』の主役に起用しようとした時、当時の日活の首脳部が嫌がったことを覚えている。強引に、独立独歩で仕事をしてきた人だった。普通、女優というのはなよなよしているものだが、彼女は女優になる以前は陸上の選手だったせいか、目標を定め必死に走る姿がランナーのようで、素晴らしい女優だった。何年か前に、北京で偶然会った時はとても元気だったのに残念だ。」と述べた。
(Wikipediaより一部抜粋)

【主な出演作】

昭和27年(1952)
若き日のあやまち

昭和28年(1953)
姫君と浪人
思春の泉

昭和29年(1954)
黒い潮
億万長者
おふくろ

昭和30年(1955)
虹の谷
女中ッ子
人生とんぼ返り

昭和31年(1956)
神阪四郎の犯罪
東京の人 前後篇
沖縄の民
人間魚雷出撃す

昭和32年(1957)
女豹とならず者
マダム
幕末太陽伝
誘惑
九人の死刑囚
暖流

昭和33年(1958)
春泥尼
霧の中の男
血の岸壁

昭和34年(1959)
荷車の歌
氾濫
千羽鶴秘帖

昭和35年(1960)
拳銃の掟
暁の翼
素敵な野郎

昭和36年(1961)
男の銘柄

昭和37年(1962)
青べか物語
あの橋の畔で

昭和38年(1963)
拝啓天皇陛下様
妻という名の女たち
彼女と彼
にっぽん昆虫記

昭和39年(1964)
五辧の椿

昭和40年(1965)
飢餓海峡

昭和41年(1966)
アンデスの花嫁

昭和42年(1967)
春日和
女の一生

昭和43年(1968)
人生劇場
 飛車角と吉良常

昭和46年(1971)
喜劇 女生きてます

昭和47年(1972)
軍旗はためく下に

昭和51年(1976)
はだしのゲン

昭和52年(1977)
若い人
遠い一本の道
昭和52年(1977)

昭和53年(1978)
曽根崎心中

平成7年(1995)
スキヤキ



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