森繁久彌とは、一体どんな俳優なのか…あまりにも長い芸歴故に、人によって(時代によって)、イメージが大きく異なっており、ひとつのジャンルにはめ込む事は難しい。文芸作品から喜劇…と、映画を中心としていた昭和30年代。昭和40年に入ると、活動の場をテレビに移し、人の良いおじいちゃんを好演。それも束の間…昭和50年からは、もっぱら舞台で座長を務め、“屋根の上のバイオリン弾き”や“佐渡島太吉の生涯”といったミュージカルから大河ドラマに致るまで年齢を重ねる毎に精力的に活躍していくのだ。森繁が最も勢いがあり意欲的にありとあらゆる映画に出まくっていた時代ー昭和20年から30年代。貪欲なまでに様々な役を自分のモノにしてしまう姿に役者魂を感じてしまう。もっとも…日本映画に勢いがあった昭和30年代って、そんな役者がたくさんいたように思う。高度経済成長の真っ只中にあった日本人は暮らしを向上させるために汗水たらして働いていたこの時代、映画は正に最盛期を迎えており、役作りに時間を掛けるよりも、勢いで撮影に挑み、短時間で最高の演技を提供できる役者が望まれたのだ。昭和30年はある意味、人々が生きる事に精一杯だった昭和20年代から少し余裕が見え始めた時期…そんな時代に、日本中を沸かせた役者の一人が森繁久彌だったのだ。

 昭和31年ー日本映画史に残る…そして、森繁の代表作となる喜劇が誕生した。それが社長シリーズの記念すべき第一作、千葉泰樹監督作『へそくり社長』である。既に、昭和27年春原政久監督によるサラリーマン喜劇『三等重役』で、手応えを感じていた東宝が、森繁特有のトボケタ演技を活かし、人事課長から社長に…さらに脇役から主役へとダブルで昇格。この作品から社長シリーズ常連の小林桂樹、三木のり平らと毎回お馴染みのドタバタ騒ぎを繰り広げる。大体の設定は自分が作り上げた会社の社長ではなく先代社長の娘と結婚して婿に入ったおかげで社長になったわけで、義理の母には頭が上がらない…不自由な社長っていうところが汗水たらして働くサラリーマンに親しまれたのだろう。社員からも尊敬の念で見られていないのは本人も充分承知しており、開き直ってダメっぷりを堂々と披露しているのが森繁のキャラクターにバッチリ合ったわけだ。同じサラリーマン喜劇でも、植木等のオーバーリアクションとは対象的に淡々とした演技がまた、笑いを誘うのである。わずか3ヵ月後に封切られた『続・へそくり社長』は前作に輪をかけた面白さで、こちらの方が好きだというファンも多い。ちなみに先代社長の未亡人を演じた三好栄子について、こんなエピソードが残されている。ロケ先の旅館で森繁が当時気に入っていた女優の部屋に夜中ソッと忍び込んだら三好の部屋だったらしく、森繁は腰を抜かしてしまったという。社長シリーズも順調に回を重ね、年に3〜4本のハイペースで制作。昭和33年に数多くの社長シリーズを手掛ける松林宗恵監督と初コンビを組む『社長三代記』を発表。珍しく森繁が脇に回り次の社長候補である加藤大介と森繁の社長秘書役の小林桂樹が主役級のサラリーマン人情喜劇であった。

 そしてこの年、森繁主演もうひとつの人気シリーズが公開される。豊田四郎監督による『駅前旅館』だ。実際、足掛け24本も作られたシリーズとなるのは続編の『喜劇駅前団地』からで『駅前旅館』は井伏鱒二の原作による文芸映画なのである。上野の旅館に集まる人々を豪華オールスターキャスト(このフレーズも最近は聞かないのが寂しい)で描かれており、華やかなスターの競演を観るだけで楽しかった。2作目以降は“駅前”とオールスターキャストだけを残して完全オリジナルの喜劇となった。久松静児監督の『喜劇駅前飯店』は、全員片言の日本語で全てのセリフをしゃべる中国人役で、かなり悪ノリの作品で終始笑いっぱなしであった。ここからしばらくは、社長シリーズと駅前シリーズの競作が続き、正月とお盆は森繁によって支えられていたと言ってもよいだろう。昭和34年の正月映画には松林監督の名作として名高い『社長太平記』が公開され、下着メーカーで繰り広げられる騒動を戦争時代に生きてきた男の哀愁を交えながら描いた秀作である。また、今回の特集では苦渋の選択で外させてもらったが『社長漫遊記』も社長シリーズ屈指の名作として忘れられない逸品である。一方、豊田四郎が久々にメガホンを取った駅前シリーズ『喜劇駅前百年』も森繁・フランキー堺・伴淳三郎の演技力を最大限に引き出した改作であった。ただ、世間のファンとは対照的に、当の森繁本人は一連の喜劇作品について評価をしていない。「あれは、大した作品じゃありません。だからあまりコメントしたくありません…」と、何ともつれない返事である。これは、三木のり平も同様のコメントしていたが、誰もが代表作として喜劇作品の話しを聞きたがる事に辟易していた…というのが真相かも知れない。

 昭和30年、森繁は社長シリーズの間に久松静児監督作『雨情』や木村恵吾監督作『世にも面白い男の一生・桂春団治』、豊田四郎監督作『猫と庄造と二人のをんな』といった文芸作品にコンスタントに主演。よくも、これほどタイプの異なる映画とキャラクターを両立できるものだと感心してしまう。これが、変幻自在俳優たる由縁であるのだが、一本の映画の中でも若者から老人まで何でもこなし、「この人の本当の年齢はいくつなんだろう?」と常々思っていた。それが顕著に現れていたのが、森繁プロの第一作目『地の涯に生きるもの』だ。この森繁プロ…実は、日本で初めての俳優独立プロダクションであり、この作品は東宝と共同で製作するという画期的な作品であった。久松監督によるオホーツクの海に生きる男の人生を現地ロケによって力強く描かれた傑作だ。さすが、森繁の良さをよく理解している久松監督だけあって流氷に閉じ込められた入江の番屋に暮らす森繁演じる老人の孤独感を見事に表現。ラストシーン、猫を助けようとした老人が流氷の海に落ちて死ぬところは、森繁一世一代の気迫に満ちた演技を見せてくれる。また、この作品は森繁の名曲“知床旅情”を生み出すきっかけとなった事でも有名。撮影の合間にロケ地の村人と話した昔話をつらつらと書き連ねて日本を代表する名曲が誕生したのだ。テレビの台頭によって、次第に、日本映画も衰退…プログラムピクチャーの代表格であるサラリーマン喜劇も終焉を迎え、森繁はテレビドラマと舞台に活動の場を見出す。とはいえ、40年以降も本数は減ったとはいえ、素晴らしい映画をコンスタントに発表。豊田監督と再びコンビを組んだ老人の痴呆症を題材とした『恍惚の人』は衝撃を与える作品であった。他にも、高倉健と共演した青函トンネル開通までを描いた森谷司郎監督作『海峡』で演じた信念を貫く一徹な採掘師が忘れられない。体格ががっしりしているからだろうか…『地の涯に生きるもの』と同様、こうした自然を相手にする無骨者が実によく似合う。役柄と同じように演技に対して一切妥協を許さない信念を持っているから、観客にもその迫力が伝わってくるのだ。続く『小説吉田学校』でもご一緒される森谷監督と言えば黒澤明監督のチーフ助監督を長年続けられていたが、黒澤監督は生前「森繁主演で映画を作りたい…」と常々言っていたという。様々な監督と作品を作ってきた森繁が唯一、東宝の監督で作品を残さなかった黒澤監督が森繁相手にどんな作品を撮ったであろうか…?今となっては叶わぬ夢である。


 戦後の日本に突然現れた職業―サラリーマン(和製英語 :salaryman)。植木等は「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と声高らかに歌い上げたその職業は、戦後の日本人社会の象徴とも言える呼び名であった。サラリーマンとは、給料で生計を立てている人を指す言葉であり、所得税法上の「給与所得者」を指すこともある。「サラリーマン」は和製英語であるが、欧米でも「日本の(ホワイトカラー)ビジネスマン」を指す普通名詞(Salaryman)として、日本文化を扱った新聞記事や書籍などで度々使用されている。東宝はいち早くサラリーマンの生活を描いた喜劇を小林桂樹主演で製作を始める。それが、昭和27年に山本嘉次郎監督による『サラリーマン虎の巻・ホープさん』であった。原作はサラリーマンの哀歌を描かせたら右に出る者がいない源氏鶏太のユーモア小説に端を発し、同年には市川崑監督の『ラッキーさん』が製作され、都会的センスに溢れたサラリーマンたちの会話やプライベートの描写などが人気を博した。そして、いよいよ東宝名物シリーズの先駆けとなる春原政久監督の『三等重役』が公開。“サンデー毎日”に連載された本作で、森繁久彌が営業部長に扮し、河村梁吉扮する社長との絶妙な掛け合いが多いにウケた。この3作によって手応えを感じた東宝は、サラリーマン喜劇というジャンルを確立し次々と『一等社員』『坊ちゃん社員』といった作品を量産していく。
 昭和30年に入るとサラリーマンの中階層以下を扱ったサラリーマン喜劇に対して、会社の社長を主人公として大いに笑って日頃の憂さを晴らした社長シリーズが森繁久彌主演によってスタートする。時代もいよいよ高度経済成長期に突入し、戦後爆発的な好景気を迎えた“神武景気”によって、日本は大戦前までの水準にまで回復。映画でも好景気に浮き足立つサラリーマンや社長の姿が浮き彫りにされていた。昭和31年、東宝のドル箱シリーズとなる記念すべき社長シリーズの第1作『へそくり社長』が森繁久彌主演によってスタート。当初、『三等重役』の続編として社長を演じた河村梁吉主演で想定されていたところ、河村の急逝によって森繁に白羽の矢が立ち、本当の意味での昇進となったわけである。ユニークなのは森繁の社長室に先代社長として河村の写真が飾られているところである。昭和46年までに37本もの作品が作られ、その殆どを笠原良三が書き下ろしたオリジナルである。出演者も森繁を筆頭に小林桂樹の融通の利かない平社員、加登大介の生真面目な部長、そして三木のり平の宴会部長という構図は変わらず、偉大なるマンネリズムとして多くのファンに笑いを提供し続けた。30年代後半に入ると、いよいよカラーの時代に入り、社長シリーズも舞台を東京だけではなく地方の観光地へ飛び出す。『社長道中記』『社長洋行記』では、観光地とのタイアップと共にスケールの大きな作品へと拡大して行く。昭和37年には、いよいよクレージーキャッツ主演による『ニッポン無責任時代』が公開。サラリーマンや会社のシステムそのものを馬鹿にしてハチャメチャにしてしまうニューヒーロー平等を演じた植木等はサラリーマン社会におけるニューヒーローとなった。上司を上司と思わない、仕事も適当にこなして、真面目な社員が馬鹿を見る…当時のサラリーマンたちが抱いていた鬱憤を一気に晴らしてくれたのが、無責任シリーズだった。
 サラリーマンの趣味として、よく飲み屋のシーンが出てくるが、サラリーマンの趣味の代表例として挙げられることが多い。不思議な事に、社長シリーズでは、もうひとつの趣味として上位にランキングされる麻雀のシーンは出て来ない。麻雀は学生運動が盛んな時代に学生であった世代(昭和30年代)が学生時代に明け暮れた麻雀をそのまま会社の先輩・後輩関係に持ち込んだが、団塊の世代(昭和40年代)からはやや趣味も多様化して必ずしも麻雀に興味を示さない層も出てき始めた。一方、重役階級の趣味としてゴルフのシーンは度々登場。印象深いのは『続へそくり社長』で、先代社長の末娘・八千草薫のお供を命じられた小林桂樹が出来ないゴルフを付き合わされるシーンだ。社長命令に逆らえない平社員の哀愁がそこはかとなく表れていた。
 ちなみに英単語“salary”の語源は古代ローマの兵士(歩兵)に遡るとされ、当時は貴重品でありかつ生活に欠かせなかった塩(Sal)を買う為の俸給という程度の意味である。多くの場合、会社に勤めて安定的に給料を得ている人に対して使用される言葉であるため、給与所得者であっても、芸能関係者(俳優や歌手など)や、いわゆる水商売関係の職業(ホステスやホストなど)、日雇い労働者は含まない。医師や弁護士、税理士、社会保険労務士などの専門職も同様である。また自営業(画家や音楽家などの芸術家を含む)や会社役員、議員なども給与所得者ではないのでサラリーマンではない。いわゆる「中産階級労働者」を指す用法もある。狭義には、ネクタイにスーツ姿でデスクワークに従事するホワイトカラーを指して使われることも多く、高学歴のイメージがつく場合もある一方で、侮蔑的なニュアンスでサラリーマンという語が用いられることもある。昭和30年の大卒者の初任給は1万7百円…ちなみに、『社長漫遊記』で、雪村いずみ演じる女子社員の月給は税込みで1万3千円、小林桂樹演じる課長が手取りで3万3千円だった。コーヒー1杯50円、映画館入場料100円の時代である。
(Wikipediaより一部抜粋)


森繁 久彌(もりしげ ひさや) HISAYA MORISHIGE
1913年5月4日〜 大阪府枚方市蔵谷生まれ。 身長171cm 体重78kg
 旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役職を経て、後に実業家となった父・菅沼達吉と、大きな海産物問屋の娘であった母との間に出来た3人兄弟の末っ子。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし、久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も、色々と子細、経緯等があって、「馬詰」姓から「森繁」姓となった。長男は馬詰家を継ぎ、次男はそのまま菅沼家を継ぎ、3男・久彌は森繁家を継ぎ、名字も「森繁」となる。
 堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)を経て、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉や山本薩夫と共に活躍。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となり、アマチュア劇団に加わり、築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演したりした。1936年、長兄の紹介で東京宝塚(現・東宝)新劇団へ入団。その後は、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満州電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。1945年、敗戦を新京で迎え、ソビエト連邦軍に連行される等して苦労の末、1946年11月に帰国。
 戦後、劇団を渡り歩きながらも、1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演。1949年には再建したばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団。演技だけで無く、アドリブのギャグを混ぜて歌も唄う等、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣った『愉快な仲間』を放送。メインの藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。同年、新東宝『腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇『三等重役』に要領の良い人事課長役で助演。本作は好評を博し、後に河村が急逝した事もあって、森繁が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。1953年、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに二枚目半の森の石松役で出演。1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった森繁の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じ、これも代表作の一つとなる。
 1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け、正式に卒業を認められた。近年は年齢・体力的な事もあり、2004年正月放送『向田邦子の恋文』を最後に俳優活動を行っていない。1990年代以降、恒例であった芸能関係者の葬式での弔辞も、2004年1月の坂本朝一元NHK会長での弔辞を最後に行っていない。2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が発売。1991年に舞台用に録音されながらも、お蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」(声が弱っている事から、親交の深い竹脇無我が代読)も収録されている。
(Wikipediaより一部抜粋)


【参考文献】
銀幕の天才 森繁久彌

102頁 29.8 x 20.8cm ワイズ出版
山田 宏一/松林 宗恵【著】
1,680円(税込)


【参考文献】
果てしなき道―森繁久彌映画遍歴

244頁 18.3×13cm ちはら書房
園崎 昌勝【著】


【参考文献】
生きていりゃこそ

312頁 19.4× 14cm 新潮社
森繁久彌【語り】久世光彦【文】
1,575円(税込)

昭和22年(1947)
女優

昭和25年(1950)
腰抜け二刀流

昭和26年(1951)
有頂天時代
海賊船

昭和27年(1952)
上海帰りのリル
浮雲日記
チャッカリ夫人と
 ウッカリ夫人
続三等重役

昭和28年(1953)
次郎長三国志 第二部
 次郎長初旅
凸凹太閤記
もぐら横丁
次郎長三国志 第三部
 次郎長と石松
次郎長三国志 第四部
 勢揃い清水港
坊っちゃん
次郎長三国志 第五部
 殴込み甲州路
次郎長三国志 第六部
 旅がらす次郎長一家  

昭和29年(1954)
次郎長三国志 第七部
 初祝い清水港
坊ちゃん社員
次郎長三国志 第八部
 海道一の暴れん坊

魔子恐るべし

昭和30年(1955)
スラバヤ殿下
警察日記
次郎長遊侠伝
 秋葉の火祭り
森繁のやりくり社員
夫婦善哉
人生とんぼ返り

昭和31年(1956)
へそくり社長
森繁の新婚旅行
花嫁会議
神阪四郎の犯罪
森繁よ何処へ行く
はりきり社長
猫と庄造と
 二人のをんな

昭和32年(1957)
雨情
雪国
山鳩
裸の町
気違い部落

昭和33年(1958)
社長三代記
続社長三代記
暖簾
駅前旅館
白蛇伝
野良猫
人生劇場 青春篇

昭和34年(1959)
社長太平記
グラマ島の誘惑
花のれん
続・社長太平記
狐と狸
新・三等重役

昭和35年(1960)
珍品堂主人
路傍の石
サラリーマン忠臣蔵
地の涯に生きるもの

昭和36年(1961)
社長道中記
喜劇 駅前団地
小早川家の秋
喜劇 駅前弁当

昭和37年(1962)
サラリーマン清水港
如何なる星の下に
社長洋行記
喜劇 駅前温泉
喜劇 駅前飯店

昭和38年(1963)
社長漫遊記
喜劇 とんかつ一代
社長外遊記
台所太平記
喜劇 駅前茶釜

昭和39年(1964)
新・夫婦善哉
社長紳士録
われ一粒の麦なれど

昭和40年(1965)
社長忍法帖
喜劇 駅前金融
大冒険

昭和41年(1966)
社長行状記
喜劇 駅前漫画

昭和42年(1967)
社長千一夜
喜劇 駅前百年

昭和43年(1968)
社長繁盛記
喜劇 駅前開運

昭和45年(1970)
社長学ABC

昭和46年(1971)
男はつらいよ 純情篇

昭和47年(1972)
座頭市御用旅

昭和48年(1973)
恍惚の人

昭和56年(1981)
連合艦隊

昭和57年(1982)
海峡

昭和58年(1983)
小説吉田学校

平成16年(2004)
死に花



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