「豊田さんはね、ちょっとヘソを曲げるとね、なかなか大変なんだよ。キャメラが回らなくなっちゃう」森繁久彌が、語る映画監督・豊田四郎の思い出である。一度、撮影が中断すると出演者やスタッフを全て外に出して芝居の気に入らない役者だけを残して、長々とお説教が始まったという。昭和31年、喜劇の脇役ばかりだった森繁の役者人生最大の転機となった名作『夫婦善哉』でコンビを組んで以来、数多くの名作を作り上げた豊田監督。よほど、森繁の演技力を気に入っていたのか気に入らない女優がいる時は森繁を読んで「何とかしてよ。夫婦役なんだから…外に連れ出してやっちゃってよ」と、かなり過激な注文を付けていたと森繁は自伝“大遺言書”の中で語っている。勿論、真意ではなかったにせよ演技に関してはかなり厳しかったようだ。特に女優に対して厳しかった豊田監督は、もっとも得意としていたのが女性映画というのだから分からないものである。真相は定かではないが、森繁曰わく豊田監督は若干オカマの気があったという。男優には甘かったが女優には事の外厳しかったらしいのだ。当時は女性側に立って物事を考えられる男性をオカマとひと括りにしていたが、豊田監督は女性の視点で物事を見る事ができた男性だっただけではなかろうか?それは見方を変えれば、こよなく女性を愛している事であり、だからこそ豊田監督は女性の描き方が上手かったのだと思う。女優に厳しかったのは、きっとその女優が女性を“演じて”しまっていたからで、自分自身(=本来)の女性を出していなかったからではなかろうか?だから、豊田監督の映画に出てくる女性たちは、リアルな女性そのものなのだ。『夫婦善哉』に並ぶ、このコンビの代表作となった『猫と庄造と二人のをんな』は、まさに女性同士の業がぶつかり合う作品だった。当時のパンフレットからも、明らかに『夫婦善哉』と比較される事を前提で作られており、森繁演じる主人公は仕事もそこそこ、嫌な事や面倒くさい事からすぐ逃げる性格は前作に酷似している。しかし、本作は、どちらかというと女の欲や見栄から露呈される醜さにフォーカスしており森繁演じる庄造が逃げ出しているのは、社会からではなく、その女性たちから…という点が前作の柳吉と違うところだ。

 役者には厳しい豊田監督だが、気に入った演技が出ると本番中に笑ってしまい「ごめん、やり直し」と監督自らがNGを出す事もしばしば…。常に頭の中に演技の構成が出来上がっており、全て絵コンテを描いているにも関わらず、出演者には絶対に見せようとはしなかった。「何でも好きなようにやってごらん」と言いながら、絵コンテ通りになるまでやらされていたという。これには泣かされたと森繁は語るが、最初から回答を見せてしまっては新しいものは何も生まれない。役者から違った解釈を引き出す事でより良いものを作り出そうと豊田監督はしていたのではないだろうか。数々の作品で、名コンビを組んできた豊田監督と森繁だが、そんな森繁を以てして「とても観に行く気にならなかった…それほど辛い事ばかりの撮影だった」といわしめたのが二人で組んだ最後の作品『恍惚の人』だ。痴呆症の老人問題を扱った本作で、主人公の呆け老人を演じた森繁には殆どセリフを与えられていなかった。森繁特有のアドリブで何か言うと「繁ちゃん、声は出さないでちょうだい」と珍しく怖い表情で豊田監督は制したという。秋から冬にかけての過酷な撮影でロケーションが多い中、更に雨を降らせて全身をびしょ濡れにさせられた。「豊田さんは、この映画の時は鬼でした」と森繁は回想する。しかし、その甲斐あって問題のこのシーンは緊張感溢れるスリリングな展開から感動へと導いてくれる。豪雨の中を徘徊する老人・森繁に容赦なく消防車2台からホースで水を掛けてくる。撮影が終わると風呂に飛び込み、そのまま厚着して酒を飲んで暖をとっていたという森繁は、生理的な苦痛を憶える度にこの映画を思い出すようになったという。義理の娘を演じた高峰秀子も豊田監督もびしょ濡れになりながらの撮影のおかげで素晴らしいラストシーンとなった。以前、脳溢血で倒れ生死の境をさまよった豊田監督が、このテーマを選んだのは、その体験があったからであろう。それから4年後、北大路欣也の結婚式で倒れて帰らぬ人となったのは単なる偶然…と片づけるには本作のラストがあまりにも酷似している。


 豊田四郎監督が手掛けた文芸映画の作家をざっと挙げても、永井荷風、谷崎潤一郎、井伏鱒二、川端康成、志賀直哉等々…日本の文学史上に名を馳せる文豪たちの作品が連らなる。平成17年、“東京フィルムセンター”で開催された『生誕百年特集 映画監督 豊田四郎』の刊行物の巻頭には、“文芸映画を豊田四郎の代名詞”という表現をしている。今でこそ、小説の映画化は当たり前だが、まだ無声映画の時代は、全てのストーリーが映画のためのオリジナル。セリフも勿論字幕のため、少ないわけだから複雑な文学は映画には不向きだった。浪曲も原作とするならば無声映画の時代に量産されていたチャンバラ映画は、意外とその先駆けだったかも知れない。映画に原作小説というものが出てくるようになったのは、トーキーになってから。尾崎紅葉の『金色夜叉』は、無声映画からトーキー両時代を叉に架け数多く作られてきたが、まだ初期の頃はメロドラマ仕立てにされていた。
 文学に忠実な文芸映画として作られるようになったのは昭和8年、五所平之助監督・川端康成の名作『伊豆の踊り子』あたりからではなかっただろうか。昭和10年には、谷崎潤一郎の原作“春琴抄”を映画化した『お琴と佐助』が公開、翌年には内田吐夢監督による尾崎士郎の名作『人生劇場』が公開され大ヒットを記録。事実上、日本映画における文芸映画の位置づけが、この映画で確立されたと言っても過言ではあるまい。戦前のこの時期、文学界においてはプロレタリア文学が国家によって弾圧され、変わって大衆文学が盛んに創られるようになっていた。そうした作品を得意としたのが松竹だった。小津安二郎の描く等身大の庶民の姿は戦争という暗雲立ち込める中、多くの観客に支持された。
 戦後、各映画会社のカラーが色濃く打ち出されるようになった時、文芸映画を最も得意としていたのは東宝と大映であった(面白いのは、任侠映画を得意とする東映が『人生劇場』を作ると飛車角のパートを抜き出してヤクザ映画の名作にしてしまった事だ)。日本の純文学は女性が主人公、もしくはキーパーソンとなるものが多く、特に東宝に関しては、豊田四郎、成瀬巳喜男、久松静児といった繊細な女性心理を描くことに長けていた監督が多かったからだと思われる。豊田監督は、その中でも、前述の通り最も多く文芸映画を残している。豊田四郎の名を世に知らしめたのは戦前に発表した石坂洋次郎作『若い人』の成功によるところが大きい。その後、林芙美子作『泣虫小僧』、阿部知二作『冬の宿』…と、文芸作品が続く。『若い人』を作った時の事を豊田監督自身こう振り返っている。「作らせたのはあの時代だと思います。戦争が身近で陰鬱な時代―あの時代に反発や抵抗を見せるものは映画以外になかった。今まで扱わなかった純文学によって新しい映画の分野を開いたのです。」
(「中央公論」昭和38年8月号より抜粋)と語っていたが、その言葉を裏付けるように表現の規制が厳しかった太平洋戦争中から、戦後しばらく経つまで文芸映画を撮っていない。
 そして、昭和28年森鴎外の『雁』によって久しぶりに文芸映画を発表。本作は大映の作品(ちょうど、この頃東宝争議が起こり、東宝は映画を作る状態ではなかった)で、高峰秀子を主人公に迎え、妾という男に屈従する女の心理を繊細なタッチで描写。ラストで主人公が自我に目覚めたアップで締めくくるシーンは感動的であった。ここから、文芸=女性映画=豊田四郎の時代が始まるのである。昭和30年代には有島武郎の『或る女』と室生犀星の『麦笛(原題:性に目覚める頃)』を立て続けに発表。そして、日本映画史上に残る織田作之助の『夫婦善哉』で豊田監督は確固たる地位を得る事になる。昭和30年代に文芸映画が増えた理由は、戦前よりも庶民の間に純文学が広がった…という実情も手伝っていると思われる。確かにベストセラーものをやる…というのはいつの時代も安全かつ堅実なやり方で、東宝もかなり力を入れていたらしい。また、現在ほどテレビが普及していなかった事も手伝って、文芸映画はある程度、集客の見込めるジャンルとなったわけである。
 豊田監督が映画化した純文学の代表的な作品は以下の通りである。谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな』『台所太平記』、永井荷風『墨東綺単』、林房雄『白夫人の妖恋』、川端康成『雪国』、井伏鱒二『駅前旅館』『珍品堂主人』、志賀直哉『暗夜行路』、高見順『如何なる星の下に』、水木洋子『甘い汗』、水上勉『波影』、有吉佐和子『恍惚の人』等…勿論、他にも掲載仕切れない作品がある。こうした原作を映画化するにあたり監督と同じくらい重要な役割を担うのが脚本家の技量だ。長編の原作をどのように映画向きに省略するか…殆どの豊田監督作品の脚色を手掛けた八住利雄の功績なくしては語ることが出来ない。八住利雄に関しては次の機会に特集を組んで紹介したいと思う。


森繁 久彌(もりしげ ひさや) HISAYA MORISHIGE
1913年5月4日〜 大阪府枚方市蔵谷生まれ。 身長171cm 体重78kg
 旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役職を経て、後に実業家となった父・菅沼達吉と、大きな海産物問屋の娘であった母との間に出来た3人兄弟の末っ子。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし、久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も、色々と子細、経緯等があって、「馬詰」姓から「森繁」姓となった。長男は馬詰家を継ぎ、次男はそのまま菅沼家を継ぎ、3男・久彌は森繁家を継ぎ、名字も「森繁」となる。
 堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)を経て、1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉や山本薩夫と共に活躍。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となり、アマチュア劇団に加わり、築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演したりした。1936年、長兄の紹介で東京宝塚(現・東宝)新劇団へ入団。その後は、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。1939年、NHKアナウンサー試験に合格し満洲に渡る。満州電信電話の放送局に勤務。満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛ける。1945年、敗戦を新京で迎え、ソビエト連邦軍に連行される等して苦労の末、1946年11月に帰国。
 戦後、劇団を渡り歩きながらも、1947年、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演。1949年には再建したばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団。演技だけで無く、アドリブのギャグを混ぜて歌も唄う等、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣った『愉快な仲間』を放送。メインの藤山一郎の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。同年、新東宝『腰抜け二刀流』で映画初主演。1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇『三等重役』に要領の良い人事課長役で助演。本作は好評を博し、後に河村が急逝した事もあって、森繁が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。1953年、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに二枚目半の森の石松役で出演。1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった森繁の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じ、これも代表作の一つとなる。
 1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け、正式に卒業を認められた。近年は年齢・体力的な事もあり、2004年正月放送『向田邦子の恋文』を最後に俳優活動を行っていない。1990年代以降、恒例であった芸能関係者の葬式での弔辞も、2004年1月の坂本朝一元NHK会長での弔辞を最後に行っていない。2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が発売。1991年に舞台用に録音されながらも、お蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」(声が弱っている事から、親交の深い竹脇無我が代読)も収録されている。
(Wikipediaより一部抜粋)


【参考文献】
銀幕の天才 森繁久彌

102頁 29.8 x 20.8cm ワイズ出版
山田 宏一/松林 宗恵【著】
1,680円(税込)


【参考文献】
NFCニューズレター第61号 生誕百年特集―映画監督 豊田四郎

A4版 東京国立近代美術館フィルムセンター


【参考文献】
FCフィルムセンター57 豊田四郎監督特集

B5版 東京国立近代美術館フィルムセンター


【参考文献】
東宝名作シリーズ第7弾 豊田四郎の世界

B5版 東宝株式会社

昭和22年(1947)
女優

昭和25年(1950)
腰抜け二刀流

昭和26年(1951)
有頂天時代
海賊船

昭和27年(1952)
上海帰りのリル
浮雲日記
チャッカリ夫人と
 ウッカリ夫人
続三等重役

昭和28年(1953)
次郎長三国志 第二部
 次郎長初旅
凸凹太閤記
もぐら横丁
次郎長三国志 第三部
 次郎長と石松
次郎長三国志 第四部
 勢揃い清水港
坊っちゃん
次郎長三国志 第五部
 殴込み甲州路
次郎長三国志 第六部
 旅がらす次郎長一家  

昭和29年(1954)
次郎長三国志 第七部
 初祝い清水港
坊ちゃん社員
次郎長三国志 第八部
 海道一の暴れん坊

魔子恐るべし

昭和30年(1955)
スラバヤ殿下
警察日記
次郎長遊侠伝
 秋葉の火祭り
森繁のやりくり社員
夫婦善哉
人生とんぼ返り

昭和31年(1956)
へそくり社長
森繁の新婚旅行
花嫁会議
神阪四郎の犯罪
森繁よ何処へ行く
はりきり社長
猫と庄造と
 二人のをんな

昭和32年(1957)
雨情
雪国
山鳩
裸の町
気違い部落

昭和33年(1958)
社長三代記
続社長三代記
暖簾
駅前旅館
白蛇伝
野良猫
人生劇場 青春篇

昭和34年(1959)
社長太平記
グラマ島の誘惑
花のれん
続・社長太平記
狐と狸
新・三等重役

昭和35年(1960)
珍品堂主人
路傍の石
サラリーマン忠臣蔵
地の涯に生きるもの

昭和36年(1961)
社長道中記
喜劇 駅前団地
小早川家の秋
喜劇 駅前弁当

昭和37年(1962)
サラリーマン清水港
如何なる星の下に
社長洋行記
喜劇 駅前温泉
喜劇 駅前飯店

昭和38年(1963)
社長漫遊記
喜劇 とんかつ一代
社長外遊記
台所太平記
喜劇 駅前茶釜

昭和39年(1964)
新・夫婦善哉
社長紳士録
われ一粒の麦なれど

昭和40年(1965)
社長忍法帖
喜劇 駅前金融
大冒険

昭和41年(1966)
社長行状記
喜劇 駅前漫画

昭和42年(1967)
社長千一夜
喜劇 駅前百年

昭和43年(1968)
社長繁盛記
喜劇 駅前開運

昭和45年(1970)
社長学ABC

昭和46年(1971)
男はつらいよ 純情篇

昭和47年(1972)
座頭市御用旅

昭和48年(1973)
恍惚の人

昭和56年(1981)
連合艦隊

昭和57年(1982)
海峡

昭和58年(1983)
小説吉田学校

平成16年(2004)
死に花




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