もはや日本人でその名を知らぬ者はいないであろう国民的キャラクター寅さん。同じキャラクターで作られた映画(テレビドラマではない)が48本。その寅さんを演じた渥美清は、映画を離れても「寅さん」と声を掛けられるほど役と一体化していた。渥美清の四角い顔に細い目は、渥美清のものでありながら、同時に寅さんのものとなってしまったのである。世界でシリーズ化されている作品を探しても俳優の特性がキャラクターと同化した例は見当たらない。かの“007”のジェームズ・ポンドですら、あれだけ何人もの俳優が演じているのだから、渥美清は世界的に見ても稀有な存在と言っても良いだろう。笑ってしまったのは、ファンの中には、本当に渥美清もフーテンだと思っている人が結構いたという記事を読んだ時だ。いや、そう思っても不思議ではないほど『男はつらいよ』の中で寅さんを演じる渥美清は、全くもって自然体なのである。こうした役の固定化を嫌がる俳優も多く、同じキャラクターを演じるとオファーが掛かる役も似たようなものばかりになってしまうので確かに、その気持ちは分からないでもない。しかし、我等が寅さん=渥美清は快く28年に渡り、48作品全てに同じキャラクターを気持ちよさげに演じ切ってしまった。以前、山田洋次監督との対談で「作者として『男はつらいよ』は、どこまで続けるか?」渥美自身が尋ねていた。その後に「生かすも殺すも山田さん次第、私はもう、下駄を預けました」と続けていたのを覚えている。(『キネマ旬報』1971年増刊号)この対談は第6作『純情篇』公開前にされたものだから、その後、42作品が作られる長い間、その気持ちに変わりは無かったわけである。渥美は寅さんを演じるに当たり「弾んでいる調子を落とさない」を常に気をつけていたと語っていたが、寅さんが歳を重ねるに従って、弾み方に違いを出しつつも、同じテンションを保ち続けていたのには、本当に感服する。歳をとったら、とったなりのマドンナに対するときめき方を変えたりして、本当に寅さんという人間が身近にいたら、こうなんだろうな…と自然に思える演技をすりところが渥美清の上手いところである。
 寅さんの恋愛は、愛おしく想っているマドンナに対して、邪な思いを抱かずに、常に一歩、離れたところから見守っている。そのひたむきな寅さんを渥美がリアルに演じ切る事が出来たのは、戦時中の学徒動員先の経験が役作りに大いに役立っていると語っている
(毎日新聞社刊『渥美清わがフーテン人生』)。戦時中、学徒動員の女学生たちの長い黒髪を「なんて美しいものなのだろう…」と遠巻きに思い、その美しいものに手を触れたいという気持ちは起こらなかったと語っている。戦時中だからこそ芽生えた感情(美意識)は、寅さんがマドンナに抱く気持ちと同じなのだ。最初は、周りが眉を顰めるほどアプローチしたり、だらしなく喜んだりするくせに、イマイチ押しが弱かったりする。それは、勿論テレもあるだろう…しかし、悩めるマドンナの苦悩の胸中を知り、自分の力ではどうする事も出来ないと悟った途端、自らみを引いてしまう。この切ない演技を表現できる役者は、失礼ながら、渥美清以外には考えつかない。相手が不幸な境遇にあればあるほど寅さんはフッと寂しげな表情を浮かべる。その表情の奥底には色んな寅次郎の悲しみが秘められているのだ。それを表現できる渥美清という俳優は、やっぱり凄い…チープな表現だが、凄いとしか言いようがない。『寅次郎恋歌』で、ひたむきに生きるマドンナの姿を見た時の悲しそうな目は、ある意味愛おしさを秘めている。これが、実体験を元に役作りをしている渥美清ならではの味なのである。また、どこまでが台本でどこからがアドリブなのか、全く分からない(強いて言うなら全てがアドリブじゃないか?と思うくらい)演技を見せるのが渥美清の凄いところ。これは、浅草のフランス座で培った能力と言っても良いだろう。実は、セリフを覚えるのが苦手で舞台の上でスコーンと忘れてしまったセリフの穴埋めに繰り出すアドリブが人気を博し、テレビ局のプロデューサーの目に止まる事となるのだ。
 寅さん以外の役を演じる渥美清は、どの映画でも共通して言えるのは、ちょっと顔を出しただけで場内がホッと和む空気感が溢れる事だ。その顕著な例は日米合作の超大作『トラ!トラ!トラ!』で、ほんの数分、空母の料理人役で登場したシーン。日付変更線について蘊蓄を垂れるだけなのだが、満席の会場からドッと笑いが起きたのである。また、山田監督の傑作『幸福の黄色いハンカチ』でも、出所したばかりの高倉健が、かつてお世話になった警察官の役で特別出演した際も、それまで緊張感溢れていた(出所した健さんが無免許で運転して警察に連行される)シーンだっただけに、渥美の笑顔のおかげで、場内にホッとした空気が流れた。いずれも、渥美の背後に寅さんというキャラクターが存在していたからこそ成り立つものであり、それを封印した作品『八ツ墓村』は「ミスキャストではないか?」という渥美には珍しい辛口のコメントが寄せられた。設定を現代に移し、定番の金田一耕助像とかけ離れた出で立ちにファンが拒否反応を示したからなのだが、原作の金田一像に近いのは、渥美だったと思う。そして、松竹が大船撮影所50周年を記念して製作されたオールスターキャストの超大作『キネマの天地』では、大女優と育って行く娘の父親という重要な役を演じる。元はしがない旅芸人一座の馬の役を演じていた半病人の父親を見事に演じ切っていた。松竹が社運をかけるこの映画で、物語全体を引っ張っていけるのは、もはや渥美清しかいなかったのだ。この作品で渥美が演じた病気の父親を見ると、若い頃に大病を患って心臓手術をして生死の境をさまよったという渥美のエピソードが頭をよぎる。その後、飛ぶ鳥を落とす勢いで浅草からテレビへ…テレビから映画の世界へと一目散に駆け上がって行った渥美清。“死”を身近に感じた男だからこそ、多くの観客を笑わせる面白い演技が出来たのかも知れない。
 かつて、“サンデー毎日”に連載されていた渥美の語りを聞き書きし、まとめたものに寅さんについて述べている箇所がある。「もし、今の世の中に寅のような男がいたら、イイ気になって見ていたと思います」仕事で上手く行かなかった時に“あいつよりはマシだ”と慰められるからだという。それだけに渥美自身が寅の事が可哀想になるとも続けている。役者本人が自身が演じるキャラクターに惚れる…寅さんは、いつしか渥美からも離れて別の人物として歩き出していたわけである。遺作となった『男はつらいよ紅の花』では、既に渥美自身、余命を宣告されており「この映画が最後になるかも…」と覚悟の上で臨んだ芝居であった。周囲の誰にも言わなかったにも関わらず、大船撮影所界隈の関係者は皆、おぼろげにその気配を感じていたという。山田監督も、渥美の体調が悪かったため“これが最終作になるかも…”と思い、だったらマドンナはリリーが相応しいと台本を書き上げたという。渥美は、よくファンから「『男はつらいよ』はいつまで続き、これからどうするつもりか?」と質問を投げかけられたというが、その度に「それは、役者が考える事ではなく、世間が役者に教えてくれるものではないかと思います」と答えていた。ファンが飽きたら、そこで打ち切る…そして、また新しい事を考える。そういうスタンスで常に寅さんを演じてきた渥美清。結局、最後48作が公開されても尚、“飽きた”という声はファンから挙がってきていない。それどころか、49作目を期待していたファンは数多く、渥美清=車寅次郎は永遠に日本人の心に愛される人物として残る事になったのだ。松竹大船撮影所では最後になるかも知れない『紅の花』で寅さんはリリーと結婚して最終回を迎えるのでは?という噂がまことしやかに流れていた。しかし、ここで完結しなかったおかげで寅さんは映画の外であちこち旅を続け、時たまリリーの住む奄美大島に転がり込んでいるのでは…と想像を膨らます事が出来るのだ。こんな役者は、世界のどこを探しても渥美清しかいない。


渥美 清(あつみ きよし)KIYOSHI ATSUMI 本名:田所 康雄 
1928年3月10日 - 1996年8月4日。東京市下谷区車坂町(現・東京都台東区上野七丁目)出身。
 上野の車坂で地方新聞の新聞記者をしていた父友次郎と、元小学校教諭で内職の封筒貼りをする母タツとの間に次男として生まれる。兄に健一郎がいる。1934年11月、上野の板橋尋常小学校に入学。1936年、一家で板橋区志村清水町に転居。それに伴い、志村第一尋常小学校へ転入。小学生時代はいわゆる欠食児童であったという。加えて、病弱で小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた。その為学校は欠席がちで、3年次と4年次では長期病欠であった。欠席中は、日がな一日ラジオに耳を傾け徳川夢声や落語を聴いて過ごし、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判だったという。1942年、巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出される。1945年、同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は霊岸島桝屋一家に身を寄せていた、と語った事がある)。この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
 1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館「阿部定一代記」でのチョイ役で舞台初出演。その後、学生アルバイトという名が欲しくて中央大学経済学部へ入学したが、船乗りになるため退学する。しかし、母親に猛反対されたため船乗りになる事を断念。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入り喜劇俳優の道を歩むことになった。なお、当初の芸名は「渥美悦郎」であったが、無名時代の極初期に参加した公演で、座長が観客に向けて配役紹介を行う際になぜか「悦郎」を忘れてしまい、「清」ととっさに言ったものをそのまま使用したといわれている。"渥美"は愛知県の渥美半島から採ったとされる。1951年、東京都台東区浅草のストリップ劇場(百万弗劇場)の専属コメディアンとなる。1953年には、フランス座へ移籍。この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
 1954年、肺結核で右肺を摘出しサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われている。また、復帰後すぐに今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に1年近く入院する。再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演。コメディアン・渥美清の名を全国区にした。1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で愛すべき無垢な男を演じ、俳優としての名声を確立する1968年、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』の放送開始。放送期間は1968年10月3日から1969年3月27日までの半年間。脚本は山田洋次と森崎東が担当した。最終回では「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」と言うストーリーに抗議が殺到。「罪滅ぼしの意味も含めて」同1969年、松竹で映画を製作。これが予想に反して大ヒットとなり、以降シリーズ化となって製作の始まった山田洋次監督の映画『男はつらいよ』シリーズにおいて、主演の車寅次郎("フーテンの寅")役を27年間48作に渡って演じ続ける事になる。この映画のシリーズは、国民的映画として日本中の多くの人たちに親しまれた。映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
(Wikipediaより一部抜粋)



【参考文献】
渥美清わがフーテン人生

190頁 19 x 13.4cm 毎日新聞社
渥美 清, 「サンデー毎日」編集部【著】


【参考文献】
男はつらいよ パーフェクト・ガイド ~寅次郎 全部見せます

192頁 28.4 x 21cm NHK出版
松竹株式会社【著】 NHK出版 【編集】
1,680 円(税込)

【主な出演作】

昭和34年(1959)
おトラさん大繁盛

昭和36年(1961)
図々しい奴
南の島に雪が降る

昭和37年(1962)
ちいさこべ 第一部
ちいさこべ 第二部

昭和38年(1963)
太平洋の翼
拝啓天皇陛下様
おかしな奴

昭和39年(1964)
続・拝啓天皇陛下様
僕はボディガード

昭和40年(1965)
ブワナ・トシの歌
望郷と掟

昭和41年(1966)
運が良けりゃ
沓掛時次郎遊侠一匹

昭和42年(1967)
喜劇 急行列車
喜劇 団体列車

昭和43年(1968)
白昼堂々
祇園祭

昭和44年(1969)
男はつらいよ
でっかいでっかい野郎
喜劇 女は度胸
続男はつらいよ

昭和45年(1970)
男はつらいよ
 フーテンの寅
喜劇 男は愛敬
新・男はつらいよ
家族
男はつらいよ 望郷篇

昭和46年(1971)
男はつらいよ 純情篇
男はつらいよ 奮闘篇
男はつらいよ
 寅次郎恋歌

昭和47年(1972)
男はつらいよ 柴又慕情
男はつらいよ
 寅次郎夢枕
故郷
あゝ声なき友

昭和48年(1973)
男はつらいよ
 寅次郎忘れな草
男はつらいよ
 私の寅さん

昭和49年(1974)
男はつらいよ
 寅次郎恋やつれ
男はつらいよ
 寅次郎子守唄
砂の器

昭和50年(1975)
男はつらいよ
 寅次郎相合い傘
男はつらいよ
 葛飾立志篇
同胞
友情

昭和51年(1976)
男はつらいよ
 寅次郎夕焼け小焼け

男はつらいよ
 寅次郎純情詩集

昭和52年(1977)
男はつらいよ
 寅次郎と殿様
男はつらいよ
 寅次郎頑張れ!
幸福の黄色いハンカチ
八つ墓村

昭和53年(1978)
男はつらいよ
 寅次郎わが道をゆく
男はつらいよ
 噂の寅次郎

昭和54年(1979)
男はつらいよ
 翔んでる寅次郎
男はつらいよ
 寅次郎春の夢

昭和55年(1980)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花
男はつらいよ
 寅次郎かもめ歌

昭和56年(1981)
男はつらいよ
 浪花の恋の寅次郎
男はつらいよ
 寅次郎紙風船

昭和57年(1982)
男はつらいよ
 寅次郎あじさいの恋
男はつらいよ
 花も嵐も寅次郎

昭和58年(1983)
男はつらいよ
 旅と女と寅次郎
男はつらいよ
 口笛を吹く寅次郎

昭和59年(1984)
男はつらいよ
 夜霧にむせぶ寅次郎
男はつらいよ
 寅次郎真実一路

昭和60年(1985)
男はつらいよ
 寅次郎恋愛塾
男はつらいよ
 柴又より愛をこめて

昭和61年(1986)
男はつらいよ
 幸福の青い鳥
キネマの天地

昭和62年(1987)
男はつらいよ 知床慕情
男はつらいよ
 寅次郎物語

昭和63年(1988)
男はつらいよ
 寅次郎サラダ記念日
ダウンタウン
 ・ヒーローズ

平成1年(1989)
男はつらいよ
 寅次郎心の旅路
男はつらいよ
 ぼくの伯父さん

平成2年(1990)
男はつらいよ
 寅次郎の休日

平成3年(1991)
男はつらいよ
 寅次郎の告白

平成4年(1992)
男はつらいよ
 寅次郎の青春

平成5年(1993)
男はつらいよ
 寅次郎の縁談

平成6年(1994)
男はつらいよ
 拝啓 車寅次郎様

平成7年(1995)
男はつらいよ
 寅次郎紅の花

平成9年(1997)
男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇



日本映画劇場とはサイトマップお近づきに…

Produced by funano mameo , Illusted by yamaguchi ai
copylight:(c)2006nihoneiga-gekijou