北村龍平監督作品に初めて出会ったのは今から13年前の雪が降り積もる北海道の小さな町ー夕張。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭の小さな即席のホールで上映されたのは、黄泉の国と現世がつながる結界がある山奥で、蘇った死者たちと壮絶なバトルを繰り広げる『VERSUS』というB級色満載のアクションホラーだった。大概、この映画祭の特色から、とっとやそっとのホラーでは驚かないのだが、とにかく血みどろアクションを徹底的に見せてやる!っていう勢いに、ただただ唖然とした記憶が鮮明に残っている。後に、個人的な知り合いだった共同脚本を手掛けた山口雄大監督から、あれって自主製作映画だったと聞かされて更に驚き、すっかり気になる存在として、続く『ALIVE アライヴ』で心臓を鷲掴みされたかのような衝撃を受けて、すっかり北村龍平監督フリークとなってしまった。そんな筆者を狂喜乱舞させる出来事が今年の6月に起こったのだ。“ショートショート フィルムフェスティバル & アジア”恒例のクリエイターズセミナーの講師として登壇されたのである。『ラブデス LOVEDATH』を最後にハリウッドへ渡った北村監督が、実写版『ルパン三世』の監督として名プロデューサー山本又一朗氏からの熱いラブコールによって久しぶりに帰国。そんなベストタイミングで講師の依頼をしたShort Shorts実行委員会のファインプレーにまずは惜しみない拍手を捧げたい。表参道ヒルズの会場には、いるいる…同じ思いでやって来た渋谷や夕張で見かけた事がある愛すべきファンタ野郎たち。例年のセミナーとは少し違った空気をはらみながら登場した我らが北村兄貴はラフなTシャツで満面の笑みを浮かべながら客席を見回す。冒頭で上映された北村監督作品ダイジェスト版のあまりのカッコ良さにどよめく会場。いつもと少し様子が違ったファンタっぽい拍手が湧き起こり(分かる人には分かるはず)いよいよクリエイターズセミナーが始まった。


 学校に行かなくてもイイから映画を観ろ、という素晴らしいお父様の英才教育(?)によって、映画館に入り浸る毎日を送っていた小学生の北村監督は、ビデオも無い時代に気に入った映画を映画館で繰り返し観て、挙句に(今では許されないが…)その映画を録音してはずっとそれを聞いていたという少年時代を過ごす。そして、ある日、今後の人生を決定づける運命的な映画と出会う事となる。その映画はデビッド・クローネンバーグ監督によるSFホラー映画の名作『スキャナーズ』!!「頭が爆発するシーンを見てビックリ仰天しまして、映画好きの友だちと俺たちも頭爆発させてぇな…とスイカに色んなものを入れて爆竹で爆発させたんです」一回目は火薬の量が多くて煙で見えなくなり失敗するも、これが北村監督が映画制作に足を踏み入れた初めの一歩である事は間違いない。今のようにCGなんて無かった時代…スクリーンに投映される映像には、クリエイターたちが試行錯誤の末に生み出したトリックが溢れていたのだ。もし、この時代(ホラー全盛期と言われる1982年)に北村少年が映画と出会っていなければ『VERSUS』も『あずみ』も『ノー・ワン・リヴズ』も生まれなかったかも知れない。「監督になったら頭、爆発させ放題なので…(監督になれて)スゲー良かった」と会場を湧かせていたが、実はここにこそクリエイターとして成功するか否か?の大きな分岐点が存在するのではないだろうか。それを8ミリで撮影すると1秒間24コマのため、勢いよく爆発させると早過ぎて写らないという事も学んだという。重要なのは『13日の金曜日PART2』で鉈が顔を斜めに入るシーンを見て「スゲーな。俺もやってみよう」と粘土で顔の型を取ってバルサで作った鉈を削り顔にハメてみて、「隙間空いてるからココ埋めてみよう…」を繰り返すところまで追求するか?…だ。観た映画なワンシーンを再現したい、真似してみたい…映画に限らず何かを作り出す原点は、全てこうした欲求から始まるのではないだろうか。

 そして話は、17歳の時にオーストラリアに渡り、スクール・オブ・ビジュアル・アーツで本格的に映画を学んだ時代に移る。「面白い事は全て映画の中にあった」という北村青年は、映画監督になろうと決めたその場で高校を辞めて、学校も決めずに単身オーストラリアに渡る。スクール・オブ・ビジュアル・アーツで最初に与えられた課題は、カメラを渡されて“迫り来る危機”を24コマのフィルムで表現する事だった。「言ってみればショートフィルムの基本みたいなもの。写真なのでセリフで説明出来ない…これがスゴイ面白かったですね」今回、北村監督が1万円の予算で卒業制作として撮影した『EXIT イグジット』の編集版が特別上映されたのだが、正直言って学生が作ったレベルではない完成度の高さに観終わって鳥肌が立ってしまった。既にこの頃から全体を包み込むトーンやスピーディーなカット割など北村龍平スタイルが確立されていた事にただ感服せざるを得ない。


 カード作って金が出来たら撮影を再開して、金が無くなったら撮影を中断する…を繰り返して完成した『VERSUS』のエピソードには北村監督の凄まじい執念を感ぜずにはいられなかった。「500万円の金で素人が集まって自主映画を始めて、足りなくなったらまた借金をして作って…最終的に4000万円の借金をしました」何がスゴイかって…それは決して借金をした事や金額ではなく、『VERSUS』を観たプロデューサー山本又一朗氏と北村監督とのやりとりにある。「プロが殆どいないから何も分からない仲間が集まって…僕とカメラマン、アクションチーム、特殊メイクのスタッフと俳優だけで作った自主映画みたいなもの」その映画に掛けたこだわりを見抜き認めてくれたのが山本プロデューサーだけだった。「お前、そんな作り方(借金を繰り返して)をしたのに、山中のアクションシーンを全部レール敷いて撮っているだろう…って、そこで気づいてくれたのは未だに又さん(山本プロデューサー)だけなんです」重い機材を運び手間暇を掛けたため撮影日数がかさみ、金が底を付いては撮影を中断して、その度に借金を繰り返す。そうまでして譲れなかった北村監督のこだわりをズバリ山本プロデューサーは見逃さなかった。「貧乏と貧乏臭いは違う」と、父親から叩き込まれてきた北村監督は「金が無いとか時間が無い事を理由に安いものにはしたくなかった」という。だからお金が無くてもお金を工面するまでひたすら待ち続けた。北村監督は妥協して手持ちのカメラでブレブレ画面の何が起こっているのか分からない映画にはしたくなかったのだ。「最近、プロでも予算が少ないのを言い訳にしている監督があまりに多い。例えそれが学生が作る自主映画だったとしても、来てもらうお客さんの時間を奪うという事に関しては素人もプロも金がある無いは理由にならないんです」その結果、『VERSUS』は世界中でカルト的な人気を博し、山本プロデューサーが『あずみ』の監督に大抜擢する事につながって行った。

【北村 龍平監督作品】

平成7年(1995)
ダウン・トゥ・ヘル

平成11年(1999)
heat after dark

平成13年(2001)
VERSUS

平成14年(2002)
ALIVE アライウ゛
DUEL 荒神
Jam Films
 the messenger
 弔いは夜の果てで

平成14年(2002)
ALIVE アライウ゛
DUEL 荒神

平成15年(2003)
あずみ
スカイハイ 劇場版

平成16年(2004)
ゴジラ FINAL WARS
櫻井敦司/LONGINUS

平成18年(2006)
ラブデスLOVEDEATH

平成20年(2008)
ミッドナイト・ミートトレイン

平成24年(2012)
NO ONE LIVES
 ノー・ワン・リヴズ

平成26年(2014)
ルパン三世



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